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サロンへの反抗

あのサロンに、
本当にこんな現実があるなんて悲しいですね。

フランス王立絵画・彫刻アカデミーは、1667年にパレ・ロワイヤル(パリ)で作品展を行い、これが美術展の始まりとされる。ルーヴル宮サロン・カレ(方形の間)で開催される展覧会(官展)をサロンと呼んだ。

フランス革命後、絵画・彫刻アカデミーは廃止されるが、王政復古のもとで芸術アカデミーに統合される。革命後、サロンはアカデミー会員による審査のもと、アカデミーに属しない一般の画家にも開かれた(公募展の始まり)。サロンへの出展が決まることが若手美術家の目標でありサロンは登竜門になった。アカデミーの審査員は、新古典主義的な美学を持っており、また旧来の貴族や新興のブルジョワたちの趣味に迎合する傾向があったため、保守化の傾向にあった。サロンでは新しい傾向の作品は受け入れられず、次第に若い作家たちの間に不満が高まっていった。これら新しい傾向は、欧州を覆う自由主義を求める政治運動や科学の急速な発展とも密接につながっていた。


サロンへの反抗
第2帝政期、皇帝ナポレオン3世は独自の芸術政策を進めてアカデミーと対立する。1863年には例年になく厳しい審査に、落選させられた作家たちの不満が高まると、皇帝は美術愛好者や大衆に判断を任せるため、落選作品を集めた展覧会を開くことをアカデミーに命じた。この「落選展」で、マネの「草上の昼食」が日常生活の裸を描いたことでスキャンダルを起こし話題になった。1881年に「フランス芸術家協会」が設立され、サロンの運営を行うことになった(民営化)。

1874年にはのちに印象派と呼ばれるグループが独自の展覧会を開いた。1884年には無審査・出品無制限のアンデパンダン展(Salon des Independants)、また、1890年には別にソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(国民美術協会)主催のサロンも開催されるようになった。1903年のサロン・ドートンヌ展開催以降も多くのサロンが誕生するようになっていく。

印象派など、後に近代美術の祖となった芸術家たちはそれぞれの美学に立って、アカデミーの美術学校(エコール・デ・ボザール)が教えるような技巧優先の保守的な美術を「アカデミー的(アカデミック)」と呼んで攻撃した。アカデミーに属さずサロンにも出さない美術家が増え、彼らは独自のグループや結社を組み、個展や独自のグループ展を行うようになった。20世紀に入り第一次世界大戦以後、これら19世紀半ばの近代美術の画家達が評価されるようになると、逆に彼らを攻撃した芸術アカデミーのアカデミックな作風の大家たちは忘れられるようになった。

官展の流れを汲むサロン(ル・サロン、フランス芸術家協会展)は現在でも毎年行われているが、近年はこれまで使用していたグラン・パレ(1900年のパリ万博に際し建てられたガラスと鉄骨の大展覧会場)が老朽化し修理のため長い閉鎖に入ったため、他の大規模会場でサロンを行っていた。また、第二次世界大戦後は芸術の中心がパリからニューヨークに移動したこともあり、サロンが芸術界(アート・ワールド)に及ぼす影響も、かつてほど大きくなくなっている。2006年以降、グラン・パレでのサロン展再開に伴い、複数のサロンが合同で開催されるSalon EN CAPITALが開催されるようになり、今後のフランス・サロン界の巻き返しが期待されている。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月16日 23:40に投稿されたエントリーのページです。

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